So-net無料ブログ作成
検索選択

宮澤賢治と母の講話を聞いて・・ [雑話]

10/9(日曜)はネコ・カフェのお寺コンサートに行き、前段に住職の講話を聞きいてきた。

 題目は「宮澤賢治と母」です。
岩手県花巻町に生まれる。明治29年(’1896)8月27日 母イチ20歳で賢治出産。
天災の多い年で8月31日に花巻町西で大地震が発生したとか・・賢治は生後5日目であったようです。
全壊家屋5千6百、死者2百人、そして2ヵ月前の6月15日には、三陸海岸に大津波で2万1千人の死傷者がでたとか・・
宮澤賢治は若くして生涯を終えていますね。
富豪の家庭で育った、お金には苦労が無い家庭の様です。
家族構成は祖父に喜助、この喜助さんは勤勉で物堅い人の様です。祖母にキン、キンさんは芸術的才能が有ったようです。祖母の遺伝子なのか、宮沢賢治も音楽を熟知していますね。好きでレコード買って聴いていたようで、セロにも興味があったようで、音楽も血筋なのでしょう。そして、父は政次郎(明治6年~昭和32年:84歳)母にイチ(明治9年~昭和38年:88歳)イチさんの実家は県内有数の富豪との事。長男は賢治(明治29年~昭和8年:37歳)宮沢賢治は37歳で没、短い生命でしたね。他に弟に宮澤清六さん、妹に宮澤クニさん、

家業は古着・質商で困窮者相手の家業は賢治にマイナスの影響を与えたとか?・・
賢治はお金に無頓着で、困った人が着物を質に入れて、お金と替えるはずが、なんと「その着物は貴女が着るものでしょ」と云って着物を受け取らず、お金だけを渡しあげたとか・・・、宮澤賢治は質商売には向いていないようですね。お金儲けの出来ない人柄だったようで・・ 「これでは商売にならない」・・父:政次郎さんは頭を抱えたのでは・・?

宮澤賢治は25歳~30歳に花巻農学校の教壇に立っていますね。在勤は4年4ヶ月です。('1921/12/3~'1926/3/31)

宮澤賢治は大正15年(昭和元年)(’1926)30歳の時に花巻の下根子の別宅で独居自炊の農業生活を始めた様で・・
この時代は草鞋が一般的で、賢治は富豪の長男、金に困っていない為か、ゴム長靴靴下、農作業服、とリヤカーまで有ったとか。
靴下など百姓は履かないが、賢治は履いていたようです。農作業服は自分でデザインしたとか・・
この当時リヤカーの車を持っていたのが宮沢賢治。この時代にリヤカーを持っている家庭は花巻で数件位しかないようです。
金持ちの家庭でないと、リヤカーは持てない時代だったようで・・今で考えるとベンツの車を持っているのと同じ様なものとか・・・
苦行としての農業から誇りを持って働ける農業(農民)を目指したが祈りは3年で挫折したとか・・
宮澤賢治は37年間の生涯の中で9回の上京をしています。
大まかな内容としては、1回目は修学旅行(大正5年〉盛岡高等農業高校。2回目はドイツ語の講習会(大正5年)浅草オペラ見物、他。
3回目は父:政次郎の代わりで商用。(大正6年)4回目はトシ子の看病とか?(大正7年)母イチと上京、5回目は賢治の家出、日蓮宗国柱会での活動、(大正10年)ここで、父親と賢治の宗教の違いが発生して大喧嘩したとか・・?6回目はトシの分骨の為弟を訪問(大正12年)7回目は、農民文化活動(大正15年)タイピスト、オルガン、エスペラント語、セロ、観劇、8回目は、水産物調査で東京大島へ(昭和3年)9回目は、東北砕石工場技師としての販売促進の為、(昭和6年)

お寺の住職さんの講話は以上です。話を聞きそびれたところも多々有ります。
ここにトシ子という女性が出てきますが、25歳で没になっているようで、賢治さんの誰に当たる関係かは聞きそびれました。

トシ子とは賢治に、もう一人妹がいたのか?・・・解りません ! 妹ですね! 間違いなし!

弟の清六さんの奥さんは愛子と聞いている。

宮澤賢治の職業は詩人であり童話作家。

宮澤賢治の名前は知っているが、中身迄ハ意外と知らないものです。

お寺のお坊さんの講話を聞いて少しは利口になった気持ちです。 ・・・

 

 P1020258.JPG

P1020225.JPG 

「宮澤賢治と母」の講話をする慶翁寺の住職さん。

住職さんは賢治の弟の清六さんと会って、宮沢賢治のお話を聞いているようです。

詳しく講話をして頂きました。頭に全部入らなかったのですが・・・誤りがありましたら御免なさい。


クラシックギター ブログランキングへ


この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。